昭和43年8月1日 月例祭


 ここで、信心の稽古をしておる方達、3年も続けて信心のおかげを頂いておるのならば、ほとんど分かっておられる事だと思うのですけれども、それは、んー、難を喜べというところまでは出来んにいたしましても、その、難はみかげであると言うことは分かってきておられると思う。ね。難即喜んで受けれるというところまではお互い頂けてはいないに致しましても、ね、難は必ずおかげの元になるのだと。信心如何によってはその難のおかげで受けられるお徳でありおかげである。ね。皆さん難はみかげであるという事は分かっておられる。またそして、そういう体験者でもあると。言う事ですからまあ分かっておられる事としてですね、今日は私はあの、おかげが難の元になる。ね。まあ例えていうならばお道の信心はどのようなこれが毒薬だというようなことであっても、それを変じて薬にしていけれるのがお道の信心。その毒が激しければ激しい程それだけの毒の使い用では大変な力おかげになると言う事。
 そこは皆さんは分かっておるという事。ね。けれども、によって頂いたそのおかげが今度はね、例えていうならば、じょう薬が反って害をして毒になる。じょう薬がかえって毒になると言う事を私共は分からせて頂いておかなければなりません。そのためにね、どうでも一つその、難はみかげという所だけではなくて難あって、喜べれる。ね。そこで、躊躇しない、それをどっこいとそこから受けていけれる信心をねいよいよ頂いておかなければならないと思うのです。
 
 今日、見えませんけれども、大盛りに始めて頂いておるお供えがあるのですよ。大分の(サル?)酒という酒がお供えになっておる。ね。あちらから、お参りをしてくる方がですね、大変その感激致しましてですね、もう本当にもう、この世の中には神も仏もないものかと一家のものが真っ暗いふちに立っておられた時にお導きを頂いてお参りをしてきて、初めて私に会われたのがもう、20日も前でしたでしょうか、ね、それから段々もう心機一変。いわゆる改心、心がまわった。真っ暗い面から真っ暗いじゃない明るい面だけが見えるようになった。目をつぶればあの時に頂いた親先生の姿がはっきり私には見えますち言われる。今日も午前中おいでに出てみえられました。ね。(?)その時に「私共のほうにはこういうめずらしいお酒がありますから、先生は召し上がった事はありますか」と言われますから、「いやそんなことは聞いたこともなかった」。これは昔ですね、あるお百姓さんに助けられたサルが、ご恩返しにですね、そのお百姓さんを山の奥の奥に連れていった。ね。そして、ここを見よといわんばかりに大きなその何ていうですかね、石のくぼみのようなところにですね、その、それこそ、お酒のにおいがぷんぷんしよったっち。アルコールのにおいが。ね。それをそのサル達は、ね、やはり病気をした時なんかは、ちょっとその、それを汲みに行ってはそれを飲む。

 それがその自然にですね、木のみとか色々なそのものをですね、それこそ木の実か(?)でしょうね。おサルさんがとってきてから、その中に食べ物を貯蔵しておる。そこへその、天然水が入ってそれがどういう加減にか発酵して、それが酒になるそれが、どのような傷にもどんな病気の時にでも治ると言う事を知ったんですね。サルが。それからはそれをサル達で造るようになった。それをだから持って帰ってその当時は(?)お薬としてその売り出して大変にその人が分限者になったという話しがある。ね。だからその時のまあその由来というですかね。そのように書いてあって、その、原料はやはり木の実、茅の実を集めてそして、人間の知恵を持って酒をやはり、じょじょうするようにですね、どんぐりの実からでもウイスキーが出来ますからね、そういうような意味でしょうね。で、長年サル酒というものが大分から出ておる。そのサル酒をですねその、あの、家内に持たせますというとったところが先日それを持ってお参りになられた。私開けてみると、中はまだ開けておりませんけれども、その、つぼが素晴らしいです。遠田焼のね、この位のそれはもう、私は中身よりもこのつぼだけでよいというごたる見事な壷に入っておる。
 遠田焼。ですからこれはまあいうならば、サルの知恵で出来たところのお神酒なんです。ね。人間の知恵で出来たのがお酒。ね。そこで私共がですねこれは神の力、神の知恵によらなければ出来ない酒がある。
 ね。人間や知恵やら力と言うものは実にそのいかにも、行き届いておるようにあってもやはり人間である。サルよりかましでしょうけれどもね。人間の考えはやっぱり人間の考え。ね。そしてその人間がどのように幸せのために幸福のためにというて、したりなしたりした事によって、幸せ幸福にはなれないというこれは、もう、真実がある。

 人間の創った幸せでは、人間の例えていうならばね、あああったら幸せになろう、こうあったら幸せになろう、金があったなら、ものがあったなら、健康であったなら家庭が円満であったなら、それがよし足ろうてもね人間の幸せというのはいわゆる人間ではつくる事は出来ない。それはね、結局は幸せというものは神様が許されるものだからなんです。 ね。その、幸せのいうなら大本というのは神様が持っておられるのだと。その鍵は神様が持ってござるのです。いかに物が出来ましても、ね、お金がたまってまいりましても、どんな立派なお家が出来ましても、ね、やはり神様に許され、神様のおかげでね、出来たものでないと幸せにはなれない。という真実があるのです。
 ね。ですからお互いここんところを一つ、本気で分からせて頂いてですたいね、神の知恵にやらせて頂いての、幸せの道を歩かせて頂こうというのが、私は信心だとこう思う。 私今朝からまあ、何というでしょうかね、心がいわば晴れ晴れしくない。心がいうなら憂鬱である。もう、朝の御理解を頂いてから、こっち、憂鬱である。今朝の御理解を頂かれた方が、えー、御理解99節を頂いた。ね。「この方は無学でも人が助かっておる。世の中には学が身を食う」というて、少しばかりの学を身に付けたばかりにその、学がその人をほろぼしたり、ね、身をつぶしたり、するようになる。ね。「無学でも人が助からんという事はない」。ね。無学でも真心の篤い人が信心に向かう。ね、真心の限りを尽くして神様の知恵に触れ、ね、そこから人が助かるほどのおかげを頂いた時には、ね、人が助かるだけではなくて、自分自身も助かっておる。人の幸せを願わせて頂いておったら、自分がいつのまにか幸福になっておるというような、その、御教えなんですね。それと、99節という、第99節という、第99節という99の(?)と言う事。を頂いた。ね。
 例えば100節には「目出た目出たの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないかと。生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道」いわゆる人間真実の幸せの道を教えておるじゃと説いておられます。

 ね。けれどもやはり99節を通らなければね、その、目出た目出たという事になってこないと。それを、50節であるところで幸せになろうとしておる。ね。70節であろうとするところで幸せになろうとしてもそれは、幸せを許されるはずがない。
 ね。今日、昼の御祈念の時だったでしょうか、大和さんがお参りになられました。毎日修行が続いておられる。本当に家族上げて一生懸命信心なさってある。ですから、人がだんだんご信心になっていかれるのを非常にその、心にかけられてお取次ぎを頂いてからお願いをなさる。とりわけ、自分のところの信心の導きの親でもあった、上滝さんが最近非常にその、信心、足が遠のいておる。
 そこで、えー色々話しをするけれども、何とはなしに、今までは親戚のように付き合い寄ったのがですね、もう、何とはなしに自分方から離れていこう離れていこうとされる。もうそれは、何といや大和さん。大和さんも、何といや上滝さんという事にも言えるでしょうね。それこそ親戚以上の付き合いをし、信心の友達でもあるというので、ちょっとこのごろ何とはなしに、自分方から離れて行く。例えば(?)出来るだけなら他所んとを、あんたんとことは(?)という雰囲気がやはり、あるらしいのですよ。
 ね。まあ寂しいだけではなく、私は思うのですけれどもね、おかげを落として行く時にはね、そこから離れよう離れようとするです。必ず。信心のある所からですね。離れよう離れようとする。そこに、あのめぐりの力の恐ろしさを感じますね。
 それはその何故上滝さんがとこがそういう風に気になるかというと、正月に御神夢を頂いておられた。あの亡くなりました上滝さんがお夢に出て来てまいりましてね、上滝の家はね、もう家族を上げての信心修行をせんとね、せっかく私が一生懸命で、いわば、死をもってあの信心を教え、死をもって残した徳が、もう消えかかっておると。

 だから、家族がどうぞ、「家族中で信心をするように大和さんあんたから言うてくれ」と(?)頼まれておるわけなんです。御霊様が。そして最近ですねその月に一回づつ位参ってくる。それがあの主人の夢をみた。今月はそれがですね、もう実に克明なんですね。その今月はまだ、ご造営費をご無礼しておろうがて。今月はいくらというて、金額まで(?)だからそん時だけは参ってくるのですね。ね。お夢を頂いたから。ね。皆さんもご承知のように非常に利発な人ですし、努力家でもあるんです。それはたまがる位に努力家です。そういう意味では人間的に非常にある意味で出来ておる。
 だからこの、子供孫達にいたるまでがですね、本当に良く出来ておるのです。本当によく出来ておる。女ながらも主人が亡くなった後をですね、もうそれこそ、人に後ろ指をさされるようなこともなく、やって行って、しかもあんな立派なご普請なんかもしたり、百姓は百姓、商売は商売でやってのけておる。ね。とてもだから私じゃとてもそげん、これは原さん言うわけ。「(?)朝のお参りは出来ん、まだそげん朝参りをお参りするものが、まあおかしい」ごという。「そげんあんた参なさらんでん」というような事を。ところがね、ここに一つ思うてみなければ、朝参りをお参りしよるものがですね、そげんいっぺんに金持ちにならん、いっぺんにその家がどうちいうごとなかばってんか、そういう過程なら絶対、もう私の場合は十何年薬を飲みませんちいう家庭ばっかりですよ。
 問題があれば、あるごときちっとおかげ頂いていきよるですよ。ね、いわゆる神様のおかげでなからなければ、出来ることではないという実験、実感というか体験を積みながらおかげを頂いていきよる。
 ね。そういう体験を積みながら、今日私が言う難はみかげであるということがいよいよ分かって行き、ね、もう難あってもうあったって喜べるような気持ちがこの段々育っていきよる。そして、おかげを受けた暁にそのおかげを落とすような事は決してありませんという信心がそれに伴うていきよる。いわゆるどんなに良薬を頂いてもその良薬がもうあの、毒になるようなことは、頂いたおかげによっておかげを落とすような事は致しませんという信心が十年十五年経っていくうちに出来ていきよる。

 いうなら、根がずっと張っていきよるというか、目には見えない。ね。それだけ打ち込んだ信心が出来ていきよるとそういうことなんです。だから、なるほどその信心の頭だけで考える人は馬鹿のごたるに見えるらしい。そういうようなお知らせを頂いておりますから、折があるたんびにそれを、言われるけれどもまあそのそれを受け付けようとしない。 ね。いわゆる、家業の行を間違えておるわけですね。家業の行というのは信心がいっぱし出来ておらなければ家業の行は絶対に出来ませんです。ね。表行が出来なければ、心行が出来ないように、ね、いっぱしの信心、お参りの信心が出来、日々教えを頂いておらなければですね、家業の行は絶対出来ません。金光様の信心は家業の行だから家で一生懸命働きよる。それは、あんたが働きよるだけの事。家業の行には決してなりよらんです。ね。これはまあ厳密に言えばまあ色々お話も長くなることですけれども、家業の行を間違えてはなりません。そういう意味での第一人者です。それでもなくても今日は私は憂鬱であるのに、大和さんからそういうようなお話を頂いてから思うたですね。「最近はですね、先生お届けがありましょうか」「いやなかばの」「んなこですか」ち言うたら、「最近病気しちゃる」。こう寝たらですね頭を自分で上げられん病気だそうです。こうやったならね。それで、こうやってかせせなんげな、こうやって。

 こっちしたら自分でこうせないけんげな。だからこればこうやってかえにゃ頭が上がらん。嫌笑い事じゃなか本なことですよ。本当。(?)これにはもうかなわんわけです。それで、お届けもせずにそんな病気の効くとこちゅうとこば、佐賀までも立てていった。その話を聞きながら私は思うたのですよね。その佐賀の先生が言われたことにですね、「上滝さん、ね、私とあんたの今度はいっちょ、辛抱くらべ。あんたはどれまで本気で通うてききるか。私もあんたの病気に対してそげな気持ちで取り組むから、私とあんたの辛抱比べ、いつよくなるとはうけあえんけれども、一つ毎日本気で通うておいで。」片道(?)代が七百円かかる。いつまでかかるやら分からん。私それを聞きよってからですね、なんか深いところにひっこまれるような思いがしました。もうあれが普通ならね、心が生き生きしておるときの上滝さんならね、はあーこれこそ神の声、はがいいじゃない本当に佐賀は佐賀でも合楽の佐賀。ね。左の喜びと書いてある。本当にこれは神の声として、今までのご無礼お粗末をお詫びさせて頂いてです、それこそ、それこそ神様と首一匹、もう、神様とは一つの辛抱比べ。今度という今度は、例えば七百円のハイヤー代がいるならばです、ね、往復約千やはり五百円からの、いるから、ねもう本当にハイヤー代の片道でもお供えをさせて頂いて一つ神様に本気で打ち向かうぞというて、できないはずの人ではない。 皆さんご存知の通りです。分かりきっておる人なんです。

 ご主人が例えばあの粟粒結核のもう、あの医大の先生がですもう時間の問題だと言うて帰られたあの病気ですらが助かったじゃないですか。ね。そういうおかを体験を持っておる上滝さんがです、そこに気が付かんともないとこれはまあ、人じゃろうかと思うと同時にです、またいよいよ私が寂しくなる。ね。私がああいう分かりのよい人。ああいう理解力を持って折る人にね私が分からせきらんと言うことは神様なんともこれはもう、もうどげんしてお詫びしていいか分からんあの、大和さんというて私大和さんに話しました。
 ね。いつまで、通わんなんじゃ分からん。自分といわば辛抱比べ。しかも千何百円かの金をそれは、医者の御薬だけではない。それは、往復の旅費だけがなんです。佐賀までもいくもんですから。ね、こういうところをですね、例えば上滝さんがまた、(?)「あんた見よってごらん、必ずおかげを落とす見本ばいち」私はもう本当に言い張っておりましたよ。ね。やはり、今にしておかげを落とす見本というのはもう上滝さん、いうなら上滝さんだけでもいいのだ。ね。本気で一つ皆さんがおかげを頂いてですね、ね、物じゃない金じゃない、時間じゃない。ね、それを皆さんがいかに稼いだところでですね、人間の知恵と力で稼いだところでどれだけのことが稼がれますか。

 ね。そういうところを一つ本当におかげを頂いてですね、私はおかげを受けていかなければね、いわゆる、本当に神様一途の信心が出来ていかなければ今日私が言う、ね、毒薬を変じて薬にする事も出来ないがです、ね、頂いた暁にそのおかげのその良薬にも等しい良薬を反対に毒にするような結果にすらなりかねないのですよ。
 ですから、おかげは早くがいいと思うのですけれども、いわば早く頂くおかげはやはりこれは考えもんだという事になるわけなんですね。目先目先の事。いわゆる今月今日が立ち行けば楽じゃと。しかも今月今日が有難く立ち行けば楽じゃという信心。ね。今月今日いわゆる先ほど久保山のお母さんが話しておりましたように、ね、もう、あそこは先日反対でしたもんね。「もう、先生はもう(?)」湯たんぽにコタツで寝ならん位にある。お母さんは反対にもう、少し集まったらもう、それこそ(?)。もう私は(?)なりよったとこう言われる。その、いわば夏嫌いのお母さんがですね、今度夏季信行が始まってからこのかたです、始めの間は泣く泣く辛抱させて頂きよったけれどもあとあますところ何日まで、こぎつけさせて頂いた。
 そういう、元気が出らせて頂いたのもね、親先生に頂いておったあの御教えの教歌を思い出させて頂いたら元気がでた。「今あるをうれしといやびまつならば、世に不幸の起こる事無し」という事であった。ね、今月今日いや、(?)なっていなくてもです、今月今日ただ今私があるということをです、御礼を申させて頂いていてさえおりゃ、いいのだという信心。

 ね,今月今日で立ち行けば楽じゃと。明日のことは心配するなと。それをもう、一年も先のことを心配するような馬鹿な事があるもんか。いやこの子達の為にというて、いわば一生懸命一生なら、地道を上げたところで果たしてさあ、それで残したその財産なら財産が果たして子供の幸福のもとにでもなるだろうかと。ね。ここが一番本気でですね、一つここんところに開眼のおかげを頂いてですね、もう私はだから、合楽にご縁を頂いておる方達以外にでも言いたいけれどもね、それは仕方が無い。せめて合楽に御神縁を頂いておる方達にはです、その事だけは分かって欲しい。
 ね。昨日、一昨日でした。この夏季修行が始まって毎日それこそかかさぬようにその、この頃野口さんが毎日お参りになる。皆さんもご承知に通りに熱心です。ところが最近非常に体が疲れる。しかもその、仕事が幾重にも幾重にもこう重なってくる。どうもその、(?)仕事が、用件が出来てくる。ね。それでも、それでへこたれてはいかん。修行中はどげなこつがあったっちゃ、お参りを続けなと思うておった時にふっと気付いたのですね。まあ、いうならば、ちょいと(?)これは自分の執念じゃなかろうかと思うた。合楽合楽とこう思い続けておるという事はねこれは執念じゃなかろうかと。執念ならば助からんです。これは、ここんところは一つ皆周囲の者も言うように「お母さん今日一日は休みなさい。こおあつかつに毎日毎日」、本当その自分もそう思うておるところに周囲から言われたもんですから、「私もそう思いよるところたい。「もう私のこれは考え方は間違っておるかもしれん。執念では神様には届かない。というので、今日はこんなわけでございますから」というて神様が見通し聞き通しなんです。体がきついこともこういう事情が溜まっておることも、聞き通しであると言う事で心に一つ悟りを開いたから心も引っかかることもなしに休ませて頂いた。

 ところが、「先生もう途端に体が元気になった。これはこういう事があるですよ。今ね朝の御祈念の時に皆さんがみんなみよりなさるでしょう。一番前に末永さんが座っております。もう、てんでもう、畳にこうやってつくごと(?)自分でこうせんでよかですたい(笑)こうやってから頑張っておるばってん、今度はこっちを(?)こうやって通りよる。ちょっと私はちょっと私時々止めてから、危なかがのち。(?)こげんある。それがもうやっぱ修行の激しい人は眠り方が違いますよ。(笑)御どうじが始まっておる。(笑)ね。はあ、今日は参らんでよかと思うたら、途端に元気になった。そしてあなたもう、溜まっておる仕事がスムーズにこうやっておかげを頂いていく。やっぱ、(?)心に悟りを開かせて頂いたらおかげを頂いたというて明くる日参ってきてからの御届なんです。まあ、野口さんはですね、そういう悟りの開かれる名人です。ですから、非常にあの、ですから本当に、ですから引っかからんですから、実におかげを頂くのですね。それから。ね。だから皆さんおかげを頂く為にはですね、そういう、手を御使いになる事はいいと思うのですよ。これは私も使う事がある実を言うと。ね。けれどもですね、それをやはり、おかげです。ね。私共がまあ、どんな場合でも横にならないという修行をして負った時代がある。ね。ところがその体がきついだけでなくてから、いっちょん自分の思うごとならん。 ね。願うても願うても神様言う事聞きなさらん。だから、ちょっともやもやしてから、いわゆる神様に対する(?)。神様に対する反抗です。ね、もやもやしたけんち言うてから、あのわざとひっくり返って寝る。ね。ところが有難いですよ。ひっくり返って寝るでしょうが、けれどもですね,有難いことはもう決して眠りきらんです。

 ね、神様からもうそれこそ、針の落ちた音にでもそれこそびくっとするくらいな神経で寝てる。やはりそこが神様ですね。これでまたおかげを落とさせちゃならんと思うてからですね、次にはそれこそびっくりするようなおかげを下さってから、また、そこの修行をさせて頂くというような場合がございます。
 まあ、野口さんの場合もそんなことだと思うのです。ね。けれども、これが本当だと言う事なったらね野口さんのことだからこれは皆にも話すに違いないと思うたからね、これは教えておかなきゃいかんと私は思うた。確かに野口さんそういう心を開くとね、おかげは間違いなしに頂くよと。もう、向こうても向こうてもおかげを頂かんときには信心はやめたというてね、止めかけるとですねおかげを受ける事があるのです。もうやめてしまうとずーとおかげを受ける事があるです。これは神様がね、(?)なさらない証拠ですよ。あれほど熱心に合楽なら合楽に打ち込んでおった人がどうしてあげんして手の平返すごたるやめられるじゃろうかと言うてやめた人があります。そして、やっぱ(?)これはね、それだけの長い間ですね、一生懸命打ち込んだと言う事だけは神様はきちっと下さるですよ。これは間違いない。ね。例えばその印を言うならですね、久留米の初代の時の久留米の今あそこに宮崎さん達が来ておるが、宮崎さん達の連れ合いの方達がですね、もう大変なおかげを受けられたんです。ね。初代のおられる頃に。もう、久留米の大物と言う人達ほとんど、石橋先生のお取次ぎを頂いたのです。ね。ですから、なくなられてもやはりおかげを受けられたのです。けれども、親先生がおられんからもう信心は辞めた。
 ところがどうですか、現在はもう影もほろけもなくなっておる人がどんなに多いか分らん。止めたっておかげを受けたんです。やっぱずっと。ね。けれどもね、そん時に働いておった貯金が下ろされた時が縁の切れ目です神様が。ね。だからそういう事もある事も皆さん知っておかないけません。だから今一生懸命(?)ぴしゃっと止めたなら恐らくあなたの心に願っておる願いが成就していくでしょう。
 それはね、もっと分かれ。ここまで来い、ここまで来い、それこそ、這えば立て、立てば歩めの親心がです、ただその日その日のおかげを下さるいわば今月今日が立ち行けば楽じゃという信心をまず分らせてもろうてからのそのおかげ。いわゆるどういうおかげを頂いてもその良薬が毒にならんですむようなおかげを頂かせるまでが神様の思いなのです。もうこの氏子にはどういうおかげをやっても大丈夫というおかげを下さるまでに(?)
ね。それで、私は野口さんに申しました。「そうじゃんの。あんたの言う通り。ちょっとした悟りだから心に引っかからん。はあ、やっぱ自分の執念じゃったばいなと。ところが野口さん神様にだけにゃあいっちょ執念ば燃やさないかんばい」。これは、私の過去の信心を聞いて下さるならばもう、執念できとるです私は。ね。これは(?)もう事神様の事だったら貫いて貫いて貫き通すというね、人が笑おうが謗ろうがどんなに反対しようが、どんなに躰がきつかろうが、そこをほうてでもというその執念を神様に燃やしていくところにもう次にはおかげではない、お徳の世界である。
 ね。そういうところをですね、いわゆる、99という、ね、節が次々とある。ね。その節を乗り越え乗り越えしてもう、99節という時にはもう(?)、ね。もういうならばです、もう、立ちもきらんという事きつい時なんです。もう、へとへとという時なんです。けれども、そこから回れ右をすれば次にあるのは、98なんです。もう(?)97なんだ。ね。そこんところをもう一歩ね、本気で一つ前進させて頂くところに100がある。いわゆる、目出た目出たの若松様というところ。生神金光大神、子孫繁盛家繁盛の道を教えるというのはその99節を乗り越えた先の道を教えて下さるのだ。ただ、日々おかげを受けていくという道じゃない。その位な道なら金光様じゃなくてもよか。それこそ金神さんでよか。ね。何々様でもよか。けれども、ここんところを一歩前進させて頂くそこにです、ね、私は教えがあると思う。
 
 ね。「野口さん今までの信心はそれでよかったよ。けれどもね、そこんところばあんたが例えば引っさげておるというか、あんたが抱えておるという様々難儀があろうがと。ね。その難儀はいわばあんたに力を与えて下さる為の重いものなのだ。それを、ぽとっと落とすなら楽になるてあたりまえじゃないか。だけん楽になったおかげ頂いたちゃこれは本当のおかげではない。ここをもう一つがんばって欲しい。神様には執念を、いわば執念にもにたようなもの。執念じゃない。ね。それは一途なんだ。ね。これほど信心をするのにという時にはもう信心が留まっておる。これはまだ私の信心が足りぬからだと一段と信心を進めていけばその、一段が大事なのだ。ね。その一段を乗り越えるところに百節がある。 ね。ここには野口さんもうおかげの世界ではないよ、お徳の世界があるよ」と言うてまあお話をしたことでございます。ね。いわば、ドライでというか、割り切ってね割り切ったら金光様のご信心はどげんでん割り切れる。ね。いうならば、私、(?)御結界に座りきるです。本当に。そして、皆さんのおかげのほうには微動だにもせんです。私がそげんしたからというて。ね。けれどもね、けれども、それではお徳の世界の方へ向っては進まれないと言う事。
 
 ね。そういうようなね、信心を私は合楽のご信者さんどうでもそこんところを頂いてほしい。最近なんかはもう、これは今に始まったことではないけれども、最近は特にそれを思うのですけれども、今は経典の何ていうでしょうか、経典の本当の解釈、ね、私は驚いてしまうのですけれども、あの、食物訓なら食物訓ちいうのがずらーと(?)ついていますよね。「ひとの生命のために天地の神の造り与えたものぞ」とかね、「何を食うにも飲むにも有り難く頂く心を忘れるなよ」とかです、「体を願え体の丈夫を願え」とかもう例えていうならば、同じ、もう、私共そこはただ、読んでいくだけでわかっとったんです。 ね、どげん違うか分らなかったのです。ところがその、一節一節にですね、もうやはり今日の食物訓にはああいう御理解がついておる。というようにですね、昨日でしたか、久留米の佐田さんがお知らせを頂いておられますのにですね、(?)を取りよるて。ね。(ほうぞうがい?)ていうのはここら辺りではなんていうかね、(ごうひな?)ていうこの辺では。あれはあの、日田辺りは(?)ち言うだそうです。(?)一生懸命立ててから、これを今晩のお白湯にしよう、そこにはですね、もう、緋鯉真鯉がいっぱい泳いでおる。はあーこれそっちいきたいけれども、今日は、(?)ここにこういう鯉があることだけははっきりしたから、これはいつでもとられるという感じなんだそうです。そして同時に自分方には水槽をまだ作っていないから、ね、今日はこの(?)だけをとっていこうというておるところで、その、まあ心眼から覚めたというのである。

 やはり今の合楽の場合はね、この鯉のに、鯉はここに(?)さえすればあることが分っておる。鯉ということはいわゆる御神徳と言う事。ね。そこで今こそね、内に水槽の大きな水槽を作っておく時なんだと。その、作ると言う事はどういうことかというとですね、いわゆる、(?)なのだ。ね。法というはね、この六法全書の法という字ですね。法則の法ですね。法、ぞうは蔵。先日からの「教蔵に入る」という事を頂く、同じ意味なんです。教えの蔵に入ると言う事。いわゆる、天地の法則のですね、もう、今まで明かし得なかった事。人間の知恵では今まで明かし得なかったところ。ね。それをね、例えば古谷さんが頂いておられるのに、私この、(?)の御理解をしておる時にですね、何でしたかね、弥勒菩薩ということを頂いておられるですね。いわゆるもうその、5億年もしなければ仏教の世界でその弥勒菩薩というのは生まれないというわけなんです。
 五億何千年しなければ生まれてこないというようなですね、いうならそういう知恵を持って今の合楽では教えを説いておられるということなんです。ね。今だから、お互いが(?)に行っておるのであり、いわゆる、(?)に行っておるのである。ね。だから今それが行じられなくてもそれを頂いておくというだけでです、ね、素晴らしいということなんです。ね。しかもそれがですね、いわばこの、水槽造りということになればです、もう、鯉はそこに行けばおる事が分っておるのだから、いつでも、そこにいけばとれることが分っておるのだからです、まず、水槽を作らせてもらう。まず、(?)に行ってです、ね、本気で神様の心の奥の奥の心を分らせてもらい、たどらせてもらい、しかともないところでです、いうならば、悟りを開いたような気持ちでおらずに、ここんところをです、例えば今日は上滝さんの例をとりましたがです、この人はおかげを落とす見本として主人が頂いておったが、家内までも同じような事をおると思うとです、本当に私はあの思うです。もうほんなこて上滝さんが悪かなかちゃなか、私が分らせきらんのだとそれを思うたら今日は一日憂鬱でした。
 ね。だから、私が分らせきらんのですからここは皆さん一つあいよかけよでです、私も分らせきらんのですから、私があなた達を行じさせきらんのですから、ね、先生がさせきんなさらんと言わずに皆さんも行じよう、私もさせよう、そういう思いと願いが一つになってです、ね、協力していったらできんことはなかろうという風に私は思うのです。ね。私は今日、毎日参ってくるある、えらい先生がですね、中学に行っておる子供を連れてきてから、丁度私髭剃りをしてもらうために、奥に下がっておった。しゃっち親先生に会いたいち。息子にその話ばしてもらいたいち言うわけなんです。だから、こっちさへ来なさいち。ちょうどお客様があっておったけれども、あちらへ来てもらって奥の方で私が言うのです。「子供に分らせてくれちいうてから、お父さんが先に分からなじゃこて」と。毎日参ってくるのです。これは(?)ごと参ってくる。(?)おかしいかばってんか。

 ほんなことですよ。もうこげん例えば分からんでんやっぱ参ってくるという事はやっぱりその何かがあるというわけなんですよね。それは、もうほんなこて皆がどげんそれこそ(?)涙を流して御理解頂きよっても(?)毎日参ってくる。そしてなら、子供だけにはその教えを頂かせたいと言うたって子供が何で聞くかち私申しました。ね。いうならばです、これはなら、私のことにも言える。私がもう言うならば自分が出来ておらんから子供が言う事を聞かんのだと、そこにせんじつめていったら本当にこれはこの先生じゃない、私自身もそれを思うです。おかげを受け切らんでまた、おかげを落として行く人達の姿はあの人は私がいう事を聞かんけんじゃの、言う事を聞かせ切らなかった私がです相済まんと思うです。けれども、そげんばっかり言うとったんなら思うておったんではですね、だから本当にそこにおかげを頂かせてもろうて、皆さんもそこんところを協力する。分かってもらいたいという思いはいっぱいなんだから、分からせ切らんだけである。ね、ですから、その思いを皆さんが汲んでくださるような気持ちで信心をする。それこそ、おかげは頂かれんでもです、今こそ(?)に行っている喜びというものをです、皆さんが身に付けておいでられてです、おかげを頂けれる。
 そして今月今日今あるを嬉しといやびまつならばという今日ある事を有り難いと分からせてもろうて、お礼を申し上げれるような信心が出来てそしてこれから先どれだけのおかげを頂いていっても、ね、そのおかげがおかげを落とす元にならんようなところまで、ね、皆さんは難はみかげ、難がある時には一つがんばるというものは皆さんはみんな持っておられるのです。難はみかげである体験もしておられる。けれどもそれだけじゃいかん。 おかげを受けた暁にです、そのおかげによってですおかげをまた元に戻すような事が無い事のためにしっかり信心をさせてもらい、そして本当のことを分かってもらう。最近私は真実シリーズだと言っておるのです。真実とは、真実とはという事を今私は伝えておるのです。ね、素直になればおかげが受けられる。そこの抜けた素直になればもう、それは天にまで上られる。限りないおかげが頂けれるという真実と言ったようなことを私は説いております。

 ね。ですからそういう真実をね本当に身をもって分からせてもらい、ね、おかげを頂いていきたい。ね。私が思わせて頂くのですけれどもね、私共がおかげを受けた暁におかげを落とさんですむというもの、ね、それはどんな場合でも、どんな場合でも慢心せんですむ私と言うこと。ね。それこそ、思いあがるな慢心するな、ね、何でしたかね、奢る心はおかげの破滅。ね。ですからそこんところを慢心しとらんごたるけれども慢心しておる。だからそこんところを私共が根限り分からせて頂いて、ね、いわゆるおかげの破滅にならないような、おかげを受けてもそのおかげが破滅にならんような、おかげを、いやそういう信心を今こそ身につけておく時ではなからろうかと言う風に思うのでございます。ね。いよいよ夏季修行も後4日間ですかね。で終わります。もう日を追うに従ってから、皆さん熱烈に御祈念が続けておられます。ね。まだ夏季修行に参加していないという人があるならね、一日でも良いから出て御覧なさい。ね。合楽で私共の信心の動きというものが今こういうような動きだという事をその雰囲気を分かって頂く事が必要だと思うです。一緒に手に手を取り合っておかげを頂いていく為にはです、ね、ですからどうでも一つ、おかげを頂いて欲しいと思います。
 同時にそれから、3日は親教会の夏季の御大祭でございます。こっからも沢山一つご参拝を頂きたいと思います。できればまた、お願いしてから久保山さんところにあちらに一緒に集まってそしてお参りをしたいと思います。
 それから先ほど、この4日からですか、御本部参拝がございます。少年少女会、37名ですかね、の方達がお参りをなさいます。若先生を先頭に参りますから、お初穂をお供えになる方はそれまでに。それから、親教会のお初穂もここで一緒にまとめたいと思いますから、どうぞよろしく。同時にあの、10日のまた全教大会ですね、それには私が今度参加させてもらいますから、皆さんもどうぞご一緒にご参拝になる方はおかげを頂かれますように、それからお初穂も間に合うように出させていただきますように、お願い申します。

 どうぞ今日の御理解ですね、毒薬を変じて薬にすると言う事は皆さんが大体分かった。知っておる。体験もした。けれどもね、こんどは良薬をね私共が毒にするようなことになっては、神様に対していよいよ相済まんことでございますから、そこんところを覚えていく信心を頂きたいという事でございましたですね。
                        どうぞよろしくお願いいたします。